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怖いものはなに?

実家には半地下室があった。

積雪対策のためか、地上より少し高くに玄関や一階があり、反対に少し潜る形で車庫と地下室があり、本やオフシーズンのクリスマス飾りなどが仕舞われていた。
火の鳥や動物のお医者さん、ぼのぼのが読みたくなったときは親の書庫のある地下室へ取りに行く。本を選び終わって部屋の明かりを消すとそれまで微かだった黴のにおいが急に強く感じられてきて、真っ暗になった部屋の隅に何かがいるような気がしてきて、目を瞑るようにして階段を駆け上るのが常だった。スペースの問題で地上のものより急になっている階段に脚が戸惑い、急げば急ぐほど何かに掴まれるようにして脚がもつれそうで怖かった。

小さな頃怖かったものは、その階段と、スタンダードに絵本『おしいれのぼうけん』、あとはなにか付喪神の出てくる絵本が全てのっぺらぼうなのがほんとうに怖くて、でもその本は読みたかったので母に顔を描いてもらったりした。トイレの花子さんの話を聞いてから暫く学校のトイレすべてが駄目になり、病気になりかけた。
中高では敢えて挑戦はしなかったものの、大学生になってヒッチコック『鳥』や13日の金曜日などからおそるおそるみはじめ、いつの間にか楽しめるようになっていたことに気が付いたので、SAWだとか28日後…に手を出してみた。ホラーの中にも好みのタイプとそうでないのがあるなと感じるくらいには食わず嫌いを克服できていると思う。ただグロテスクなだけであったり、誰かが狂った人に無駄に惨殺される話や子どもがどうにかされる話はあまり進んで鑑賞したいとは思わないのだけれど、ゾンビ映画は好きなのが自分でもよく分からないので今度よく考えてみたいと思う(“ゾンビ大全”みたいな厚い本が意外なほど沢山出ているので今度未見のものを潰していったり知識を得るため一冊買ってみようかとすら思っているくらい好き)。ゾンビはファンタジーだからかな…

子どもたちとウォーキング・デッドをみていても彼らはちっとも怖がらないのだが、最近上の子(三歳)はほん怖などのおばけ描写をふつうに怖がるようになった。後ろをすごく気にしながらも逃げはせずみつづけるので、面白い(脅かすと泣く)。下の子(一歳)は注目させるシーンでは身体が前のめりになり、その後ぴょんとびっくりするものの真顔でいるので強いのかも知れない。こちらは泣かない。
さきほど夫が同じおばけシーン(兄は泣き、弟は焦ってちょっと逃げたもの)に陽気な音楽をつけて編集してあるものをみせたら二人とも笑っていたので編集の妙というのもあるのだなあ音楽って大切だなあという話をした。
想像し、楽しむ範囲は広いほうがよいと思うので、子らがもうすこし大きくなって嫌がらなければ毎夜怪談で寝かしつけるのも趣があるかも知れない。

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『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』と天女の羽衣

『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』はアイルランドのアニメ映画で日本では今日から公開されている。

お話の題材は主にアイルランドの神話、あざらしの妖精セルキー。
多くを言葉で語らないので、
自分が登場人物の子どもになったような手探りの気持ちでみることができる。
だからここでも筋については詳しく述べないけれど、
セルキーについて調べてみたら
“海ではあざらしの姿、陸に上がるときは皮を脱いで人間の姿になる”とのことで、
陸で皮を隠されてしまうと人間のいいなりになるしかなくなってしまい、
でも皮を見付け次第海へ帰る…とあり、
まるきり天女の羽衣伝説と同じで驚いた。
小さな頃は天女の話を、勝手な旦那さんだ、天女が可哀相、と思っていたのだけれど、
各国に似た話があるとするならば、もしかすると
医療の発達していない昔に病気などで弱って死んでしまった奥さんのことを
“海へ帰ってしまった””天へ帰ってしまった”妖精や天女だったんだよ、と子どもに説明していたのが発端だったりするのかも知れない、
そうだとしたら悲しいことだな、と思った。

繰り返し歌われる歌も、色彩もかたちや動きも、とても綺麗な作品。
そしてあっここはゆばあば、ここはねこバス、ここはラピュタ、というとてもわかりやすいところもあってなごんだ。
(きっともっとほかの構成要素たる作品もあるのだろうけれど、知識不足。)
あと最後のよくみると重力が逆さまになっている描写がほんとうに美しく、さりげないけれど決定的で、悲しくて泣いてしまった。

日本語吹き替え版も気になるのでDVDが出たら手に入れたいし、
今作の監督トム・ムーアによる、初の長編アニメーション『ブレンダンとケルズの秘密』もみたいと思った。
とにかくまずは皆さん今作を劇場でみましょう。

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踊る人

「あごひいてくびのばしてかたさげてむねひらいておなかひっこめておしりあげてあしくっつけてつまさきひらく」
これを毎回先生は一息に言った。

すなわち
顎を引いて 首を伸ばして 肩を下げて 胸を開いて お腹を引っ込めて お尻を上げて 脚をくっつけて 爪先を開く
バーレッスンのはじめの姿勢である。
バーを掴んでいないほうの腕は綺麗な半円に、指先はそっと親指と人差し指でものをつまむ寸前のような形に固定する。
毎週やっていてもこれがなかなかできなかった。
モダンダンスという クラシックバレエから派生した踊りをすこしやっていた小学生の頃のこと。

私よりもっと小さな頃から、私がやめてしまったあとも、別の教室でクラシックバレエをずっと習っていた友人は、
常に背筋が伸びていて美しく、ずっとかりんかりんに細くて、成長期に首がするするっと伸びて、踊っていないときにも佇まいや所作がバレリーナそのもののようにみえた。トウシューズになりたての頃にそれを見せてもらったことがある。私もおはなしでは読んだことがあったので、先生の許可がなければ履き始められない重要なアイテムだということは知ってはいたものの、もし自分が履くとなったら恐ろしいような心地もする不思議な靴を、ほんとうに嬉しそうに大切そうにしていた彼女が印象的だった。

身体だけで表現することを突き詰めているひとの佇まいは独特だ。
踊りにしても、スポーツや歌にしても、なにか特定の筋肉をひたすら鍛錬しているがゆえの物理的な身体のかたちの違いがあることを差し引いても、なにかの動きやふとしたときのまなざしが、のらりくらりと身体に甘くしている(私のような)人とは決定的に違う鋭さを秘めている。
基礎の基礎として、常人には充分難しいこと、例えば先ほどの”あごひいて(以下略)”ができるまで練習し身につけなければならないことの厳しさ。自分の身体にいうことをきかせ続けることの難しさ。向上し続けていかなければならないこと、代わりがないことへの恐怖だとか、そういうものと向き合っているので、狩人のような鋭さがあり”格好いい”のだろう。

『リトル・ダンサー』という映画があり、
それはある男の子がクラシックバレエを初めてみかけた時から惹かれて踊るようになる、というだけの話なのだがその子を始め周囲の友だちや家族、先生の変化が細やかに描かれていてとても好きな映画だ。
劇中の重要な部分に、ある有名なほんもののバレエダンサーがカメオ出演するのだが、ほんのちょこっとなのに圧倒的な存在感があるのはなぜだろう。と思って書いてみた記でした(映画とってもおすすめですので未見のかたは是非)。

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こころのキリスト教徒

どうしても始めのほうは思い出話が多くなってすみません。

親が通っていたので、ものごころついた頃からプロテスタントのキリスト教会に通っていた。
教会が好きだった。日曜学校のお話。絨毯張りのやわらかい階段。あかるく、賛美歌のよく響く礼拝堂。オルガンの音も、クリスマスのごちそうやハンドベルも、綺麗なステンドグラスも好きだった。礼拝が終わったあとの賑やかで穏やかなお昼ご飯の時間も。おやつも(食い意地が張っている)。
肝心の牧師先生のお話は、だいぶ大きくなってもなかなか難しかったが、中学生向けのクラスなどでは同級生の子たちと話し合うのが楽しかった。
子どもの時分から教会に通っていてよかったと思うことは幾つかある。

一つは、幼なじみができたこと。
赤ちゃんの頃から一緒に遊んでいた女の子が2人、男の子が2人いて、ほんとうに仲がよかった。
とくに女の子3人組で礼拝のあとの礼拝堂で歌を歌ったり礼拝堂の裏にある洗礼準備室に忍び込んで人形などで遊ぶのが楽しく私は毎週日曜日が待ち遠しかった。はやうまれでおっとり元気なMちゃん、おそうまれでおしゃまで活発なYちゃん、私はどういうタイプだったんだろう。自分ではわからない。

一つは、いろいろな人と接する機会があったこと。
英語圏やヨーロッパや韓国から来た宣教師家族、90代のおばあさん、ひねくれものの大学生など、
ふつうの小学生中学生暮らしではあまり接する機会のない方々と、同じものを信じていることで話もしやすいような気がした。韓国からの宣教師家族は長いこと日本にいて、バザーでとっても赤くて辛くて美味しいキムチを分けてくれたり、お家におよばれしたときは韓国のりの作り方を教えてくれた。

一つは、感謝できるようになったこと。
キリスト教だと、
無事になにかを成し遂げたとき、病気の治ったとき、おいしいご飯を食べられるとき、
協力してくれたひと、看病してくれたひと、ご飯を作ってくれたひと、それと神様にお祈りで感謝する。
“祈り”というと内容は”お願いごと”という印象があるが、”感謝”もとても多い。
宗教に関係なく、自分勝手なことはよくないことで、そうならないためには謙虚でいることと、色んなものに感謝することも大切なように思うので、今でも身近な人は勿論、広い範囲をみて感謝することも心がけなくてはなと思っている。

いまは、教会には通っていないのだけど、そのきっかけについてはまたこんど。
ただ、キリスト教徒ではなくなってしまっても、幼少期の記憶は鮮やかなもので、その影響か小人のような”こころのキリスト教徒”がたまに現れて賛美歌を口ずさんだり(歴史があってきれいな旋律が多く 落ち着くのだ)、「この恵みに感謝します。アーメン」とちんまり祈っていたりする、それはそんなに悪いことではないような気がしている。

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怖い話

おばけをみたことがあるわけではない。
けれど、不思議な現象には何度か遭遇した。

  • コップ
    まだ子どもたちもいない頃。
    ある夜、暗くした居間で夫と映画を観ながらのんびりしていた。
    中盤から飲み始めた飲み物は集中していたからか全部は飲まなかったな、と思い、映画が終わったのでそばに置いておいたコップを片付けようとしたところ、見当たらない。
    ふと顔を上げたところ、数メートル先の食卓のあかりの下にそのコップはあった。夫のコップは手元にある。
    私のコップだけが、映画を観ている間に私のそばから食卓の上への移動していた。中身の入ったまま。映画の中盤以降は二人とも椅子の上から動いていない。
    私 – 夫 — 食卓  という位置関係だったので、仮に私がぼんやりコップを置きに行って忘れているのだとしても、夫は私が動いたことを確実に覚えている筈だが、その事実もない。また、私が中身の入ったコップをわざわざ居間の暗いうちに映画の途中で食卓まで移動させる意味もない。ただ、椅子の足元に置いたので、蹴らないようにするのと、忘れずに片付けないとな…と鑑賞中にすこし思ったのだ。
    だからなにか気を利かせてくれた座敷童的なものがいたのだと思うことにした。
  • 爪痕
    知らぬ間に夫の背中に謎の爪痕があったことがある。
    人のものではないのだ。小さく等間隔に3本ほど、赤い糸のような傷跡になるほど鋭い何かが、寝ている彼を起こさずに傷つけていった。
    彼の身体の硬さでは届かない場所である。
    また、服はなんともなっていないので(というかもちろん)チィさんではない。
    布団、服、何かの道具などにも、5mmほどの間隔で3〜4本の傷を幾つもつけられるようなものは特に見付けられなかった。
    私たち、座敷童的なものを何か怒らせてしまったのだろうか。
    最近は音沙汰がない(子どもたちに気圧されているのか)。
  • プール
    これは小さな頃、札幌の大きなプール施設に付属するお風呂であったこと。
    大きなプール施設なのでお風呂も大きい。私はその時父親と男湯に入っていて、露天風呂(にも温水プールのような部分がある)で潜って遊んでいたら数人の子どもたちが楽しそうに数を数える音が聞こえてきた。
    水から顔を上げると、聞こえない。
    沈めると、「…にーい、さーん…」「ふふふっ」「次は〇〇の番だよ」「いーち…」と聞こえる。
    近くに露天風呂やサウナが幾つかあったが、その中にも該当するような子どもたちはいない。
    そもそもプールの中に聞こえるように音を流す場合はかなり大音量でなくてはならないはずだけれど、まるでスピーカーから流したかのようにはっきりと・水中でだけ話し声が聞こえるというのが解せないことであった。

以上です。あと北海道に住んでいるころ、弟が家の中で遭遇した赤いワンピースのおばけがいるんですがその話はまた今度にします。