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こころのキリスト教徒

どうしても始めのほうは思い出話が多くなってすみません。

親が通っていたので、ものごころついた頃からプロテスタントのキリスト教会に通っていた。
教会が好きだった。日曜学校のお話。絨毯張りのやわらかい階段。あかるく、賛美歌のよく響く礼拝堂。オルガンの音も、クリスマスのごちそうやハンドベルも、綺麗なステンドグラスも好きだった。礼拝が終わったあとの賑やかで穏やかなお昼ご飯の時間も。おやつも(食い意地が張っている)。
肝心の牧師先生のお話は、だいぶ大きくなってもなかなか難しかったが、中学生向けのクラスなどでは同級生の子たちと話し合うのが楽しかった。
子どもの時分から教会に通っていてよかったと思うことは幾つかある。

一つは、幼なじみができたこと。
赤ちゃんの頃から一緒に遊んでいた女の子が2人、男の子が2人いて、ほんとうに仲がよかった。
とくに女の子3人組で礼拝のあとの礼拝堂で歌を歌ったり礼拝堂の裏にある洗礼準備室に忍び込んで人形などで遊ぶのが楽しく私は毎週日曜日が待ち遠しかった。はやうまれでおっとり元気なMちゃん、おそうまれでおしゃまで活発なYちゃん、私はどういうタイプだったんだろう。自分ではわからない。

一つは、いろいろな人と接する機会があったこと。
英語圏やヨーロッパや韓国から来た宣教師家族、90代のおばあさん、ひねくれものの大学生など、
ふつうの小学生中学生暮らしではあまり接する機会のない方々と、同じものを信じていることで話もしやすいような気がした。韓国からの宣教師家族は長いこと日本にいて、バザーでとっても赤くて辛くて美味しいキムチを分けてくれたり、お家におよばれしたときは韓国のりの作り方を教えてくれた。

一つは、感謝できるようになったこと。
キリスト教だと、
無事になにかを成し遂げたとき、病気の治ったとき、おいしいご飯を食べられるとき、
協力してくれたひと、看病してくれたひと、ご飯を作ってくれたひと、それと神様にお祈りで感謝する。
“祈り”というと内容は”お願いごと”という印象があるが、”感謝”もとても多い。
宗教に関係なく、自分勝手なことはよくないことで、そうならないためには謙虚でいることと、色んなものに感謝することも大切なように思うので、今でも身近な人は勿論、広い範囲をみて感謝することも心がけなくてはなと思っている。

いまは、教会には通っていないのだけど、そのきっかけについてはまたこんど。
ただ、キリスト教徒ではなくなってしまっても、幼少期の記憶は鮮やかなもので、その影響か小人のような”こころのキリスト教徒”がたまに現れて賛美歌を口ずさんだり(歴史があってきれいな旋律が多く 落ち着くのだ)、「この恵みに感謝します。アーメン」とちんまり祈っていたりする、それはそんなに悪いことではないような気がしている。