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料理のバリエーション

一番はじめに覚えた料理は目玉焼きだった。
十歳離れた弟が生まれた時に、父が「お母さんは寝かせておいてあげて一緒に作ろう」と持ちかけてくれたのがきっかけで、それからしばらくの間毎朝二人で朝ごはんを準備した。卵を調理して、紅茶を淹れて、パンを焼く。くらいだけれど、
・スクランブルエッグ
・茹でたまご
・ポーチドエッグ入リスープ
・目玉焼き
のどれにしてお肉や野菜はなにをそえるか、気分で決められるのが楽しく調理も難しくなく、習慣にもしやすく、とても初心者向けだったと、父はよくぞ誘ってくれたと、思う。さすが父。

それまで本などに出てきた料理が気になって母に協力してもらい突発的になにか作ったりしていたものの、習慣はなかったので、朝ごはん作りでだいぶん台所へ近づけたように思う。
もともと、「ぐりとぐら」のかすてらはもちろん、「まほうつかいのノナばあさん」の街にあふれるスパゲティ、「おばけのてんぷら」のめがねのてんぷら、「14ひきのあさごはん」のどんぐりパンなど、絵本のなかのおいしそうなものが大好きだったし(そういう子どもはけっこう多いと聞く)、それに食べるのが好きなほうだったので、食べたいものを準備できる嬉しさ楽しさに気付けてからはあまり抵抗なく(といっても夜ごはんは母におまかせだったけれど)高校に持っていくお弁当を、寝坊しない限りは自分で作っていた。

ただし、料理の基礎!という勉強はしていないので、いまさらながら和食やパスタの”正しい”作り方を本などで学ぶのもよいかも…と思っている。いま一番好きな料理家さんは土井善晴さんで、彼の料理はわりとワイルドなほうに分類されると思うのだけれど、ものすごくしっかりした和食と仏料理の土台があってこそだし、私がこのまま作り続けていたらぐずぐずになっていってしまう恐れがある。あと、お魚料理とスープ作りがもっとうまくなりたい。

よく作るお肉料理をメモしておこう:

鶏肉は
もも→塩をしてひたすら、ほんとうにひたすら弱火で皮から焼く
(高山なおみさんのレシピ。皮目から7割方火が通ったところでひっくりかえす。おいしい)

( ↑ これに書いてあります。)
あとはグラタン、なんらかのスープに投入、親子丼。

むね→片栗粉をまぶして青菜と炒める、栗原はるみさんのレシピで鶏ハム
ささみ→酒蒸ししてサラダ、揚げて南蛮漬け

豚肉は
バラ薄切り→おなじみ白菜との重ね蒸し、中華丼
肩ロース塊→塩豚煮、たまに角煮(バラ塊もよいがそれだと脂身が多いので半々にすることも)

ほかはたまに食べたくなると牛丼、レバニラ、牛すじカレーなどを作る。
ソーセージは添加物たっぷりなの知ってはいるけれどお手軽なので、名古屋の名物スパゲティナポリタンに使っている。(トマトケチャップで炒めたピーマン・玉ねぎ・ソーセージを茹でたスパゲティとフライパンで和えて半熟炒り卵の上に乗せ、粉チーズとタバスコをたっぷりかけて食べる。鉄板のお皿だとなお良し)
(鉄板は気のお皿付きでアマゾンでお安く買えて長持ち、ハンバーグや焼きそばもおいしくいただけるのでおすすめします)

お魚は塩焼きとムニエル以外にもできるようになりたい、煮付けがどうもうまくできない。

カバー写真は奈良ホテルのすばらしいオムレツでした。

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読書について.

事情があって小さな頃よく病院の待合室にいたので、
3,4歳のころだったか、そこに置いてあったドラえもんで文字を覚えた。
親の趣味(仕事のためもあったかも)で絵本が沢山あったのも影響して
本を読むのが好きな子どもで、幼稚園の学級文庫は読破し、
小学校では図書館に入り浸り借りて帰って家でも読み、
中学校の図書館はいまいちだったので持参したものをずっと読んでいた。自分の区や隣の区の図書館へ電車で出かけた。
母親もそういうタイプだったらしく、遺伝らしい。
母はいまでも毎週のように最寄りの図書館から本を借りてきて読んでいるようだけれど、
私はいま恥ずかしながら読書ペースはだいぶん落ちてしまった。
いまはロベルト・ボラーニョ『2666』が中断されていていけない、かなり分厚いのに。
あとエリック・マコーマック『隠し部屋を査察して』も途中だけれど、
いしいしんじ 『海と山のピアノ』を買って読みたい気持ちが高まっている。
夫は怪談本の収集家で、おもしろそうなものを沢山買い続けているので
怪談本にも読みたいものが沢山ある。
ふたりとも読むのは遅いのに、よく欲しい本をまとめて購入するので、
積ん読の山が高い。老後の心配は全然いらない感じだ。

よく言われていることだろうけれど、読書には
著者の脳内で展開されたお話を文字を通して自分の脳内に自分なりに展開する、
映像をみるのとはまた違うおもしろさがあると思う。
起こり得ないホラーやファンタジーも可能になるし、
数日間の出来事をじっくり描いているものを数日間かけて読めばその出来事を体験したように感じられる。
映像作品も好きだけれど、自分の想像力をフル回転させるのが(疲れるが)心地よい。
子どもたちにもその楽しさや心地よさはぜひ知ってほしいと思っている。

自分が親に読み聞かせをしてもらうのが好きだったので、自分の子にもしてあげたいと思いつつ、
なかなか夜も朝もばたばたしてしまってその時間を作り出せない。
二人とも放っておくと絵本で遊び出し壊してしまうので注意しつつ、もっと読んであげたい。
とくに最近下の子が読み聞かされるおもしろさに気付いて、読ませようと「はい」と言って本を渡してくるので。

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英語の学び方

幸いなことに、英語を学ぶことがあんまり苦ではない。
文法を完璧に理解している・単語を物凄い量覚えているとかではないのだけれど、
苦ではないのでこれまで積み上げてきたものを経てすこうし得意にはなれたと思う。
勉強するものというよりは、面白いもの・ことにたどり着くための道具としてとらえているところがあるかもしれない。

中学校で初めて英語を習った先生がとてもよい先生だったのが大きな影響を与えていると思う。
割りと多くの若い先生に特有の頼りなさみたいなものが一切無く、帰国子女タイプであかるい熱意のある先生だった。
初めての英語の授業に初めてのタイプの先生で戸惑う生徒たちをぐんぐん巻き込むような授業をした。
例えばある時は”subway”を説明するのに突然両手で長方形を作って、「ガタンゴトン…」と言いその長方形を「プシュン!」と言って真下にずらし”SUB,”と言う。電車はそのまま地下を走っていき、最後に先生は”…way.subway”と言う。まるで小さな子向けのようだが、だからこそインパクトがあってびっくりしながらもう二度とsubwayの意味は忘れないと思った。また、時折繰り返されたこのような身振り手振りの説明は、今思えば英単語に日本語の訳を付けて覚えるのではなく直にその意味を受け取る覚え方を自然と始めさせてくれたので大変よかったと思う。
つまり”red”と言われたとき”赤”という日本語ではなく赤い色が頭に広がるようにする。英語圏の子どもがするように、単語の意味する概念をそのまま受け取ればのちに文を読むときも意味を取る上では一段階省略するようなかたちになり要領が多少よいのだ。訳せよと言われればその時日本語にすればよい。
例えば、授業にCDプレイヤーを持ってきたかと思えばおもむろに配られたプリントにはブリトニー・スピアーズの曲の歌詞に彼女のかわいい写真の切り抜きが添えられている。そしてもちろん曲が流されつつ、プリント下半分に書かれた先生独自のおもしろい和訳を授業を受けながら穴埋めすると歌詞カードが完成する。こんなに楽しい授業があっただろうか!私はすっかり英語のことも、先生のことも大好きになってしまった。担任じゃないのが残念だと思っていた矢先に英語部(すごい名前)設立の話を持ちかけられて喜び勇んで立ち上げ部員になった。勉強部ではなかったのでたしか最後には受験の時期に消滅したけれど、放課後に集まって先生のサポートを受けながら授業より難しい歌詞の曲を和訳したり、海外の中学生と英語でチャットをしたり、小さい子に学んでもらうという設定で絵本を作ったりして、楽しく過ごした。

今も感覚で正しいか正しくないか選んでしまうので、これは第何文法ですかと訊かれても全然分からないので講師には向いていない。けれど小さな子に教えるとしたら、これは色んな人が使っているもので わかれば楽しいことがより増えるよ、ということが伝わるように、その部分はほんとうに尽力したいと思う。

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怖いものはなに?

実家には半地下室があった。

積雪対策のためか、地上より少し高くに玄関や一階があり、反対に少し潜る形で車庫と地下室があり、本やオフシーズンのクリスマス飾りなどが仕舞われていた。
火の鳥や動物のお医者さん、ぼのぼのが読みたくなったときは親の書庫のある地下室へ取りに行く。本を選び終わって部屋の明かりを消すとそれまで微かだった黴のにおいが急に強く感じられてきて、真っ暗になった部屋の隅に何かがいるような気がしてきて、目を瞑るようにして階段を駆け上るのが常だった。スペースの問題で地上のものより急になっている階段に脚が戸惑い、急げば急ぐほど何かに掴まれるようにして脚がもつれそうで怖かった。

小さな頃怖かったものは、その階段と、スタンダードに絵本『おしいれのぼうけん』、あとはなにか付喪神の出てくる絵本が全てのっぺらぼうなのがほんとうに怖くて、でもその本は読みたかったので母に顔を描いてもらったりした。トイレの花子さんの話を聞いてから暫く学校のトイレすべてが駄目になり、病気になりかけた。
中高では敢えて挑戦はしなかったものの、大学生になってヒッチコック『鳥』や13日の金曜日などからおそるおそるみはじめ、いつの間にか楽しめるようになっていたことに気が付いたので、SAWだとか28日後…に手を出してみた。ホラーの中にも好みのタイプとそうでないのがあるなと感じるくらいには食わず嫌いを克服できていると思う。ただグロテスクなだけであったり、誰かが狂った人に無駄に惨殺される話や子どもがどうにかされる話はあまり進んで鑑賞したいとは思わないのだけれど、ゾンビ映画は好きなのが自分でもよく分からないので今度よく考えてみたいと思う(“ゾンビ大全”みたいな厚い本が意外なほど沢山出ているので今度未見のものを潰していったり知識を得るため一冊買ってみようかとすら思っているくらい好き)。ゾンビはファンタジーだからかな…

子どもたちとウォーキング・デッドをみていても彼らはちっとも怖がらないのだが、最近上の子(三歳)はほん怖などのおばけ描写をふつうに怖がるようになった。後ろをすごく気にしながらも逃げはせずみつづけるので、面白い(脅かすと泣く)。下の子(一歳)は注目させるシーンでは身体が前のめりになり、その後ぴょんとびっくりするものの真顔でいるので強いのかも知れない。こちらは泣かない。
さきほど夫が同じおばけシーン(兄は泣き、弟は焦ってちょっと逃げたもの)に陽気な音楽をつけて編集してあるものをみせたら二人とも笑っていたので編集の妙というのもあるのだなあ音楽って大切だなあという話をした。
想像し、楽しむ範囲は広いほうがよいと思うので、子らがもうすこし大きくなって嫌がらなければ毎夜怪談で寝かしつけるのも趣があるかも知れない。

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踊る人

「あごひいてくびのばしてかたさげてむねひらいておなかひっこめておしりあげてあしくっつけてつまさきひらく」
これを毎回先生は一息に言った。

すなわち
顎を引いて 首を伸ばして 肩を下げて 胸を開いて お腹を引っ込めて お尻を上げて 脚をくっつけて 爪先を開く
バーレッスンのはじめの姿勢である。
バーを掴んでいないほうの腕は綺麗な半円に、指先はそっと親指と人差し指でものをつまむ寸前のような形に固定する。
毎週やっていてもこれがなかなかできなかった。
モダンダンスという クラシックバレエから派生した踊りをすこしやっていた小学生の頃のこと。

私よりもっと小さな頃から、私がやめてしまったあとも、別の教室でクラシックバレエをずっと習っていた友人は、
常に背筋が伸びていて美しく、ずっとかりんかりんに細くて、成長期に首がするするっと伸びて、踊っていないときにも佇まいや所作がバレリーナそのもののようにみえた。トウシューズになりたての頃にそれを見せてもらったことがある。私もおはなしでは読んだことがあったので、先生の許可がなければ履き始められない重要なアイテムだということは知ってはいたものの、もし自分が履くとなったら恐ろしいような心地もする不思議な靴を、ほんとうに嬉しそうに大切そうにしていた彼女が印象的だった。

身体だけで表現することを突き詰めているひとの佇まいは独特だ。
踊りにしても、スポーツや歌にしても、なにか特定の筋肉をひたすら鍛錬しているがゆえの物理的な身体のかたちの違いがあることを差し引いても、なにかの動きやふとしたときのまなざしが、のらりくらりと身体に甘くしている(私のような)人とは決定的に違う鋭さを秘めている。
基礎の基礎として、常人には充分難しいこと、例えば先ほどの”あごひいて(以下略)”ができるまで練習し身につけなければならないことの厳しさ。自分の身体にいうことをきかせ続けることの難しさ。向上し続けていかなければならないこと、代わりがないことへの恐怖だとか、そういうものと向き合っているので、狩人のような鋭さがあり”格好いい”のだろう。

『リトル・ダンサー』という映画があり、
それはある男の子がクラシックバレエを初めてみかけた時から惹かれて踊るようになる、というだけの話なのだがその子を始め周囲の友だちや家族、先生の変化が細やかに描かれていてとても好きな映画だ。
劇中の重要な部分に、ある有名なほんもののバレエダンサーがカメオ出演するのだが、ほんのちょこっとなのに圧倒的な存在感があるのはなぜだろう。と思って書いてみた記でした(映画とってもおすすめですので未見のかたは是非)。