【アボカドの木】の後日譚です。
昨晩、別の部屋にいた夫に「いま鼻歌歌ってた?」と訊ねられ、ううん、と答えるとこんなことを伝えられた。
曰く、どこからともなくちいさな鼻歌が聞こえるので、ブラウザで開いたタブのどれかで動画を再生していたっけ、と探すが、再生中のものはない。
その間も聞こえ続けているその歌は、どこかで聴いたことのある曲で、何だったかしらんと聴き入っているうちに小声ながらも自分のすぐ後ろまで近づいてきたように感じ、窓の外から聞こえてくるにしてはおかしい…と振り向いた瞬間に掻き消えた、という。
それは怖かったのではないか、と訊くと、そうでもなかった。こんな曲で…と彼がハミングした曲は、ベートーヴェンの交響曲第9番、歓喜の歌だった。
たしかに朗らかな曲だ。ただ、晴れやかに朗々と、というのではなく、機嫌よく夜風の中を散歩しているような、やわらかな声だったという。もっと聴いていたいような気がした、と彼は言った。
我が家は地面からすこし離れた階にあるが、深夜になると意外なほど大きな音で歩道を行く人(酔っぱらいが多い)の声が聞こえることがある。それにしては小声が近く聞こえすぎ、上下など近くのベランダで歌った人がいるとも時間帯や住人からして考えづらい。納得のいく説明は、みつからなかった。
夜が明けて、昨日土に植えたアボカドのようすを確認し、水をすこし追加して午前中も光がよく当たる場所へ移動させた。今日も風がなくはないけれど、だいじょうぶだろう。
昼になったところで風に揺れるアボカドの影がふと人影に見え、おっとびっくり、という話をしたら、そこで「昨日の鼻歌はアボカドだったのでは?」と夫がひらめいた。
突拍子もないようだけれど、私達の間ではすとんと腑に落ちるようなところがあった。
なぜなら、そのアボカドの小さな木にとって、葉に落ちる陽の光、幹をしならせる風、外のいろいろな音、それらに生まれて初めて触れたのが昨日だったから。園芸に詳しくない私達の植え方ではすこし心もとなかったけれど、一粒の種からしっかりと伸びた細い二本の木は思いの外柔軟にしなっていて、それになんだか気持ちいい天気なのに風を心配して中に入れてしまうのはもったいない気がして、時々折れていないか飛んでいっていないか確認しながら外に出しておいた、その夜だったから。
だから彼女がよろこんで歌ってくれていたなら納得がいくし、うれしいことだな、と思った。
花さく丘べに いこえる友よ
吹く風さわやか みなぎるひざし
こころは楽しく しあわせあふれ
ひびくは われらのよろこびの歌(岩佐東一郎作詞・ベートーベン作曲/文部省唱歌「よろこびの歌」)[参照サイト]