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気を遣うということ

私は気が回らないのだ、ということにようやく気が付いたのは結婚してからだった。
“長女/姉である”ということ、”しっかりしている”等と言われることに、そう言われるようふるまうことに慣れている、と思っていた。それがアイデンティティの一部である自覚すらあった。
つまり(たいへん世の中をなめていることに)大体のことはそつなくこなせるのでは、と思っていたのだ。

ところがどっこい、結婚してから、自分のふがいなさに落ち込むことが何度もあった。
今までどおり過ごしていたのでは、大切な人に対してたいへん失礼にあたったり、無神経過ぎて傷付けたり、してしまうのだ。看病もうまくできない。

つまりは、それまでほとんど人に気を遣ってこなかったのだ。
看病と呼べるような看病もしてこなかった。
“気を遣う”ということは(と偉そうに気遣い初心者が考えるに)、おそらく主に人と人の間の潤滑油であるので、それの不足により大打撃!活動停止!という事態にはならないまでもたぶん影で何人もに呆れられながらも、これまでそこそこ活動してこられたからこそ気付くのがとても遅くなってしまった。恥ずかしい。守られて、気を遣われてき続けてそれに甘え、自分から何かしようということがなかった。のだと思う。

よく「初対面で話しかけづらかった」と仲良くなってから言われる。
それだってもし自分が友達が欲しいなら、多少なりとも話しかけやすい雰囲気をまとう努力をするべきだったのだ。
(自分から話しかけるのはまたレベルの高い難しさがある…構えすぎかしらん 特に昔のほうが引っ込み思案だった)

大学生の頃、無神経だと思った人と関係を断ったけれど、そのときに私は自分を省みただろうか。断つことに変わりはなくとも、自省するいいきっかけだったのではないか。

振り返れば自分のことばかり考えてきたようで、再び書くが、恥ずかしいと思った。
元来大雑把なところがあるので、なあなあに済ませてきたことも多かったと思う。
私によってちらっとでも嫌なことがあったかたに心からお詫びしたい。あとなるべく気遣い上手になりたいので努力中だけれどまだまだ下手くそなのでご容赦願いたい……(いい大人が申し訳ない)。

私は守られる側から守る側に回っていて、ちっちゃいのがふたりもいる。
改めてそれをちゃんと意識して生活しなくてはならないと思う。
気遣いもそうだけれど、命の保護や心の成長の要は親なのだから。

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migと申します。 二男児の母猫です。 得た知識やものの感想など纏める場所を設けようと思いました。 あとはのんびりした日記です。

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