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Taika Waititi(タイカ・ワイティティ)監督 “Hunt for the Wilderpeople”

タイカ・ワイティティ監督が大好きになってしまった。『シェアハウス・ウィズ・ヴァンパイア』(原題:“What We Do in the Shadows”)という、モキュメンタリー(ドキュメンタリーのていでそうではない映画)コメディの監督・製作・脚本と、本人もいい感じにちょっと気弱で明るいヴァンパイアで出演もした方。

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監督です。

で、今回みた”Hunt for the Wilderpeople”という映画がとてもよかったので。

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里親にたらい回しにされる問題児の都会っ子リッキーが山奥の夫婦にもらわれ、おばさんの優しさに徐々に打ち解けるも一大事が起こり少年は山へ逃げる。助けにきた偏屈頑固おじさん(サム・ニール)が少年を見付けてすぐ(リッキーのせいで)足を怪我し、足止めされてる間にふもとでは誘拐事件として大規模な捜査が始まり、捕まりたくないので逃げるふたり…という話。

この監督はテンポとか小道具とか飄々としたユーモアがウェス・アンダーソン監督を彷彿とさせるのだけど、もっと脱力しているというか、雰囲気がゆるいところが好き。ニュージーランドの風景もすごくきれいで、挟まれる小ネタにもニュージーランドへの愛を感じる(ロード・オブ・ザ・リングとか)。原作小説もニュージーランドの人気作家のもの(バリー・クランプ 1986年の作品)。日本語には一冊も翻訳されていないとかで、映画の日本公開とDVD販売とともに原作書籍の翻訳と発売も待たれる。すごく待っています。

主演の男の子が(太ってるから)顔のパーツが真ん中に寄っててかわいい。演技も、素なの…?というくらいに、問題行動は起こしてたけど根は素直ないい子を自然に演じてて良かった。サム・ニールのワイルドおじさんもはまっていて、トータルでみると”徐々に打ち解ける頑固なお年寄りと子ども・そしていぬ”というほろり要素満載に思えるのだけれど、絶妙なさじ加減でくすっと笑えるあたたかい仕上がりにしてある。照れ隠しにもいわゆる感動大作へのちょっとした皮肉にもみえて、かわいい。かわいい監督です。でもゆるふわと思いきや突如けっこう激しい演出があって唖然とさせられるところも好きです。

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監督にも、主演の男の子にも、マオリ族の血が流れているそうで、まあ主人公のリッキーは都会っ子だけど劇中に登場するマオリの女の子の強く優しいところ(この子も山奥ではあるけれどふつうに現代的生活をしている)の描き方やリッキーがその子と会ったばかりなのに安心して眠ってしまうところとかにマオリ族への思いがほんのり入っているように感じた。

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現在彼はマーベル映画マイティ・ソーの3作目『マイティ・ソー:ラグナロク』の監督にも抜擢されて現在撮影中のもよう。
「スーパーヒーロー映画を僕に撮らせるとこうなるんだ。忠告はしたからね!」との一言とともに本人が公開していた短編がこちらです。

(前回のマーベル映画最新作で出番のなかった神・ソーと超人・ハルク(変身前)が暇してる様子)
(神なのになぜか出番がなくて、自分なりに謎を追って分析してたり(“浮かんだいすに座ったむらさき男はだれか?/わかっていること/むらさき・魔法のグローブをつけている・立ちあがりたくないみたい”などと書いてある)、彼しか持ちあげられない伝説のハンマーであるムジョルニアを赤ちゃんみたいにおふとんをかけて寝かせてあったり、幼稚園でお話会をしたりしてる)

もちろん戦えば強いヒーローなのだけど、もともとこれまでのマーベル映画とくにヒーローたちが集結するシリーズ”アベンジャーズ”でちらっちらっと描かれてきた”ソーのちょっとあほ(かわいい)具合”を強調する仕上がり。
これをみてるとかなり脱力系のヒーロー映画になりそうで楽しみです。というかコメディの監督をよく抜擢したな…。

もう私はこれから先、彼の活動を追います。
マイケル・ジャクソン好きな少年のもとに刑務所から父親が戻ってくる話”BOY”が未見なのでなんとかしてみてみたい。

ポップにつくられた『シェアハウス・ウィズ・ヴァンパイア』の日本版予告編もどうぞ:

こちらはおそらくレンタルなどもあるのでお茶目なヴァンパイア映画がみたいかたは是非どうぞ。怖くないです。

 

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映画館で観たい映画

映画の原体験もドラえもんだったと思う。
ドラえもん映画を毎年観に行ってカラフルなプラスチックのおもちゃをもらうのを楽しみにしていた。
その初回だったか、連れて行ってくれた親の友人によると、ポップコーンを買ってもらって食べ始めんとしていたところ映画が始まって、食べ始めの一つを手に持ったまま観終わったらしい。そんなに巨大なドラえもんにのめり込むとは。
(藤子・F・不二雄ミュージアムはまだ行ったことがない、子がドラえもんを気に入ったら一緒に行きたい。)

子が二人いるので”どうしても”という映画だけを預けてひらっと観に行く身としては、映画館で鑑賞するものは予告をみて”これは体感したい!”と思ったものに限られてくる。学生の頃だと札幌の蠍座、池袋の新文芸坐、渋谷のUPLINK Xなどでポスターだけの情報で決めた映画をじっ…と観ることが多かったのだけれど、最近は映画館の醍醐味はもちろん大きな音と大きな画面だよね!!という感じに退行してアトラクション感覚で選ぶことが多い。

時期を逃すと観られない、という意味では、『ロード・オブ・ザ・リング』は映画館で観られて幸運だった。ただ1、2、3作目それぞれの間が開くので待つのが辛かったのとひとつひとつが長いのでへとへとになった覚えがある。あれらはVIP席的な椅子で観るべき…。でもとにかく最高に緻密な原作に基いて本当に各総力を結集して映像化されていて、へとへとになるのは入り込んでしまっていたからに他ならないし、CGもいま観てもそんなにちゃちくないところがほんとうに凄い。あーやっぱりブルーレイ買おうかなー。

『スパイダーマン』(トビー・マグワイアの出てるひとつめ)を観てからビルの上をぴゅんぴゅん行くの映画館で観るとこんなに気持ちいいのか!という発見が初めてあり、映像の迫力でとにかく押してくる(という場面のある)タイプの映画にも興味を持つとともにアメコミ映画への偏見がなくなり、映画館でではないがダークナイト3部作、今大盛り上がりのMARVELコミック映画はロバート・ダウニーJrの『アイアンマン』以降のものはたぶん全て観た(私はマイティ・ソーが好き トム・ヒドルストンにナタリー・ポートマンにアンソニー・ホプキンス!豪華!)。三点着地は最高。

妊娠中に『エイリアン』の前日譚『プロメテウス』を観に行って、…観た方はお察しのことかと思いますが…なんというか貴重な体験をしました。ラパスさんの役がお腹をむおおおってするところで子が激しく動いたんですよね。すみませんでした。
あとあのコンソールというか操作椅子のある場所のすごく綺麗なシーン、あれだけでも映画館に行った価値はあった。宇宙の映画は映画館との親和性がとっても高い(ぶん怖い)。

ちょっぴり後悔しているのは、ガイ・リッチー版シャーロック・ホームズの一作目をなぜかあまり面白くなさそうと思って観なかったことと、赤ちゃんのいた時期だったので『マッドマックス 怒りのデス・ロード』に行かなかったこと(これは名古屋では爆音上映をやっていなかったのでそこが残念)。
ということで(?)先日『シン・ゴジラ』は行ってまいりました。セリフ…セリフを読みたい…台本を読みたい!と思いました。勿論ゴジラですので、大きな音と大きな画面で観たのは大正解でした、怖かった。

『インセプション』はDVDで観たあと、映画館で見応えありそうだなと思ったので、予告にてちょっと似たシーンのあったドクター・ストレンジは観に行きたい。ベネディクト・カンバーバッチが好きだし。
というのが、これからの話。
自分で好きな映画をかけられるとしたら、一日かけてターセム・シン映画(スタートダッシュ)→ウェス・アンダーソン映画(たまにサンドイッチやおにぎりやお茶をいただく)→ジブリ映画(シータやフィオと一緒にたまに寝る)→ジャン=ピエール・ジュネ映画((悪)夢)→『銀河鉄道の夜』(明け方)を流したい。
というのが、夢の話。

つらつらと失礼いたしました!

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怖いものはなに?

実家には半地下室があった。

積雪対策のためか、地上より少し高くに玄関や一階があり、反対に少し潜る形で車庫と地下室があり、本やオフシーズンのクリスマス飾りなどが仕舞われていた。
火の鳥や動物のお医者さん、ぼのぼのが読みたくなったときは親の書庫のある地下室へ取りに行く。本を選び終わって部屋の明かりを消すとそれまで微かだった黴のにおいが急に強く感じられてきて、真っ暗になった部屋の隅に何かがいるような気がしてきて、目を瞑るようにして階段を駆け上るのが常だった。スペースの問題で地上のものより急になっている階段に脚が戸惑い、急げば急ぐほど何かに掴まれるようにして脚がもつれそうで怖かった。

小さな頃怖かったものは、その階段と、スタンダードに絵本『おしいれのぼうけん』、あとはなにか付喪神の出てくる絵本が全てのっぺらぼうなのがほんとうに怖くて、でもその本は読みたかったので母に顔を描いてもらったりした。トイレの花子さんの話を聞いてから暫く学校のトイレすべてが駄目になり、病気になりかけた。
中高では敢えて挑戦はしなかったものの、大学生になってヒッチコック『鳥』や13日の金曜日などからおそるおそるみはじめ、いつの間にか楽しめるようになっていたことに気が付いたので、SAWだとか28日後…に手を出してみた。ホラーの中にも好みのタイプとそうでないのがあるなと感じるくらいには食わず嫌いを克服できていると思う。ただグロテスクなだけであったり、誰かが狂った人に無駄に惨殺される話や子どもがどうにかされる話はあまり進んで鑑賞したいとは思わないのだけれど、ゾンビ映画は好きなのが自分でもよく分からないので今度よく考えてみたいと思う(“ゾンビ大全”みたいな厚い本が意外なほど沢山出ているので今度未見のものを潰していったり知識を得るため一冊買ってみようかとすら思っているくらい好き)。ゾンビはファンタジーだからかな…

子どもたちとウォーキング・デッドをみていても彼らはちっとも怖がらないのだが、最近上の子(三歳)はほん怖などのおばけ描写をふつうに怖がるようになった。後ろをすごく気にしながらも逃げはせずみつづけるので、面白い(脅かすと泣く)。下の子(一歳)は注目させるシーンでは身体が前のめりになり、その後ぴょんとびっくりするものの真顔でいるので強いのかも知れない。こちらは泣かない。
さきほど夫が同じおばけシーン(兄は泣き、弟は焦ってちょっと逃げたもの)に陽気な音楽をつけて編集してあるものをみせたら二人とも笑っていたので編集の妙というのもあるのだなあ音楽って大切だなあという話をした。
想像し、楽しむ範囲は広いほうがよいと思うので、子らがもうすこし大きくなって嫌がらなければ毎夜怪談で寝かしつけるのも趣があるかも知れない。

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『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』と天女の羽衣

『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』はアイルランドのアニメ映画で日本では今日から公開されている。

お話の題材は主にアイルランドの神話、あざらしの妖精セルキー。
多くを言葉で語らないので、
自分が登場人物の子どもになったような手探りの気持ちでみることができる。
だからここでも筋については詳しく述べないけれど、
セルキーについて調べてみたら
“海ではあざらしの姿、陸に上がるときは皮を脱いで人間の姿になる”とのことで、
陸で皮を隠されてしまうと人間のいいなりになるしかなくなってしまい、
でも皮を見付け次第海へ帰る…とあり、
まるきり天女の羽衣伝説と同じで驚いた。
小さな頃は天女の話を、勝手な旦那さんだ、天女が可哀相、と思っていたのだけれど、
各国に似た話があるとするならば、もしかすると
医療の発達していない昔に病気などで弱って死んでしまった奥さんのことを
“海へ帰ってしまった””天へ帰ってしまった”妖精や天女だったんだよ、と子どもに説明していたのが発端だったりするのかも知れない、
そうだとしたら悲しいことだな、と思った。

繰り返し歌われる歌も、色彩もかたちや動きも、とても綺麗な作品。
そしてあっここはゆばあば、ここはねこバス、ここはラピュタ、というとてもわかりやすいところもあってなごんだ。
(きっともっとほかの構成要素たる作品もあるのだろうけれど、知識不足。)
あと最後のよくみると重力が逆さまになっている描写がほんとうに美しく、さりげないけれど決定的で、悲しくて泣いてしまった。

日本語吹き替え版も気になるのでDVDが出たら手に入れたいし、
今作の監督トム・ムーアによる、初の長編アニメーション『ブレンダンとケルズの秘密』もみたいと思った。
とにかくまずは皆さん今作を劇場でみましょう。

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踊る人

「あごひいてくびのばしてかたさげてむねひらいておなかひっこめておしりあげてあしくっつけてつまさきひらく」
これを毎回先生は一息に言った。

すなわち
顎を引いて 首を伸ばして 肩を下げて 胸を開いて お腹を引っ込めて お尻を上げて 脚をくっつけて 爪先を開く
バーレッスンのはじめの姿勢である。
バーを掴んでいないほうの腕は綺麗な半円に、指先はそっと親指と人差し指でものをつまむ寸前のような形に固定する。
毎週やっていてもこれがなかなかできなかった。
モダンダンスという クラシックバレエから派生した踊りをすこしやっていた小学生の頃のこと。

私よりもっと小さな頃から、私がやめてしまったあとも、別の教室でクラシックバレエをずっと習っていた友人は、
常に背筋が伸びていて美しく、ずっとかりんかりんに細くて、成長期に首がするするっと伸びて、踊っていないときにも佇まいや所作がバレリーナそのもののようにみえた。トウシューズになりたての頃にそれを見せてもらったことがある。私もおはなしでは読んだことがあったので、先生の許可がなければ履き始められない重要なアイテムだということは知ってはいたものの、もし自分が履くとなったら恐ろしいような心地もする不思議な靴を、ほんとうに嬉しそうに大切そうにしていた彼女が印象的だった。

身体だけで表現することを突き詰めているひとの佇まいは独特だ。
踊りにしても、スポーツや歌にしても、なにか特定の筋肉をひたすら鍛錬しているがゆえの物理的な身体のかたちの違いがあることを差し引いても、なにかの動きやふとしたときのまなざしが、のらりくらりと身体に甘くしている(私のような)人とは決定的に違う鋭さを秘めている。
基礎の基礎として、常人には充分難しいこと、例えば先ほどの”あごひいて(以下略)”ができるまで練習し身につけなければならないことの厳しさ。自分の身体にいうことをきかせ続けることの難しさ。向上し続けていかなければならないこと、代わりがないことへの恐怖だとか、そういうものと向き合っているので、狩人のような鋭さがあり”格好いい”のだろう。

『リトル・ダンサー』という映画があり、
それはある男の子がクラシックバレエを初めてみかけた時から惹かれて踊るようになる、というだけの話なのだがその子を始め周囲の友だちや家族、先生の変化が細やかに描かれていてとても好きな映画だ。
劇中の重要な部分に、ある有名なほんもののバレエダンサーがカメオ出演するのだが、ほんのちょこっとなのに圧倒的な存在感があるのはなぜだろう。と思って書いてみた記でした(映画とってもおすすめですので未見のかたは是非)。